能登半島一周450キロ、19日間の旅。歩いてみると能登が広大に感じられました。昔はみんな歩いていたから昔の人も同じ感覚だったと思います。
歩けば人と大地の生きものとしての約束が現れます。それは距離。
掛値なしの絶対的な尺度となって、1キロは1000メートル、2キロなら2000メートル、1メートルたりとて縮むことはなく、歩幅で等しく埋めていく他はありません。人が1日に歩けるのは30キロ程度。車でたった30分の距離です。
『歩き』という風土のモノサシ
さて、昔の距離の単位は「一里」でした。これは約4キロ、徒歩でちょうど1時間の距離です。歩いて気付いたのはこの一里が文字通り自分の里、つまり日常生活圏(集落群)に等しいということでした。
二里離れていれば隣りの村や町という感じです。生活実感がこもった人間的尺度として一里二里を徒歩感覚で捉えると、風土の成り立ちがよく分かります。ちなみに四里(16キロ)は1日で往復できる折り返し限界点となりますから、そこから先は泊りを要する「旅」の世界です。
能登は今も古地図のまま集落が点在しているところなのでそれぞれの生活圏をつぶさに観察できます。昔話的にいえば山で芝刈りしている爺さまが久しぶりに市場へ出かけていく町が、おおくくりの生活圏の中心地です。
約30キロ間隔で大きめの町(宇出津・穴水・町野・輪島など)が等しく現れ、そこに半径15キロくらいまでの小集落が経済的・心理的に帰属し、境目らへんの農村集落は経済機能を補完する先をそのどちらか決めています。こうして自然にできあがった経済文化圏はそのまま行政区分となり地元意識として残っています。
長い間、歩くしか移動手段がなかったのです。直径30キロの文化圏が世界でそこから出ることなく一生を終えた人も多かったでしょう。
のと遍路では丹念に昔の道を選んで歩きました。たいてい一車線ほどの狭い道でくねくね曲がりながら集落を縫い裏山を越えて次の集落へと続きます。これが実に歩きやすいのです。
道が狭いおかげで塀や庭木が日陰を作り、人が近いので挨拶しながら鎮守の森がある神社で一休み、森の脇はクーラーのようで峠のお地蔵様の花飾りにホッとしました。
ところで古い旅行記には七尾湾や内浦の沿岸航路が登場します。徒歩以外の移動運搬手段として水運はかなり発達していたようです。船なら歩かなくても前進でき、旅人にとってよい気分転換になったでしょう。
何百年も何千年も徒歩によって作られ結ばれてきた能登の風土。歩けば、埋もれていた風土や忘れられつつある記憶がよみがえってきます。
【編集後記】古地図を片手に都会を歩いてみてもたいていは著しく変貌していてその痕跡からありし日を想像するだけです。町と町の間は新しくできた市街地で隙間なく埋められ、海岸線は2~3キロも先になって見る影もありません。
ところが能登では市街化も埋め立てもされていないので、古地図のままです。海沿いなんかは基本的にあまり変わらないんじゃないかと思います。中世から江戸時代までの人が見た風景と今が大差ないというのはワクワクしませんか。
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