【能登を学ぶ】生業の記憶にヒント!

移住者が見た能登

間垣の里として知られる外浦(日本海側)の大沢で興味深い話を聞きました。技能集団や人夫が季節につれ場所により能登半島内で集結し、能登の者同士で働き支えあっていたというのです。

四月から九月に大敷網(定置網)をしていた大沢では三波(内浦=富山湾側)の人が請われて胴船の船頭になり、大沢の人夫を指揮しました。
能登島の漁港・鰀の目からは動力船が半島先端を廻航してきました。胴船を連ねて沖まで曳航するのが役割でした。

網を道に広げて修理したのは辛抱強い六郎木(門前)の人たち、獲った魚を売りさばく網元は輪島の人でした。
「旅の人」が番屋に住み、祭りはにぎやかで、恋愛が縁談にまとまることもあって次世代のつながりも生まれたそうです。

『里山里海』というつながり

民俗学者の宮本常一氏は著作で能登の「塩木道」に触れています。鶴町(能登町神野)の人が山の雑木を外浦の塩田まで運び、薪として塩と交換しました。その時に利用した尾根道が塩木道です。

内浦へは谷筋に造船材を運んだ「船木道」がありました。材木を流せる大きな川がなかったので杉を丸太にし、担いで海岸まで下りたそうです。筆者はそれぞれの道を歩いて、人間の英知というものに深く感動しています。

鋳物製造の中居(穴水)は大きな鉄釜を「貸釜」として能登各地で塩田生産する集落に貸し付けて塩の売上の一部をもらっていたそうです。錆びるのが早いから修理もしました。いわばメンテナンス付きリース契約です。

鍋米」はその農村版。農家の必需品で高価な鉄鍋を貸して、秋にお米をもらいました。こちらは食糧物納リース契約です。

長い付き合いと信頼をベースにした仕事。お金に全てを頼らずモノの等価交換で生きる工夫。売り渡すのではなく貸し与える知恵。補い分かち合う人々のつながりを支えた大地と森と海の生産力。

内側は相互依存関係で結ばれながら外部的には自立していた半島世界を、現代の課題に照らしながら蘇らせられないものか。その学び方はヨソの事例を漁るのではなく、能登の足元の記憶を探ることです。

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