能登に移住して一番違いを感じたのは生活の中に入り込んでくる自然の度合いの大きさでした。その代表が雪、ここの冬は放っておいてくれません。
関東育ちの私にとって冬は毎日晴天でした。一日でも雪が降れば大騒ぎです。秋から切れ目なく冬になって切れ目なく春になります。仕事も学校も生活もそのまま。東京は季節のない祭りが毎日続いているようで、もっともっとと走り続けるのです。
しかしここには季節の切れ目があります。見慣れた世界が初雪で真っ白に変わる時、だれもが向こう三ヶ月間「雪国」で暮らす覚悟をします。冬と向き合い、冬をいなし、冬をやり過ごし、冬と親しむために。「季節時計」がチクタクと動き出します。
雪という風土の刻印
雪は刻印を残します。雪割草は雪があるからこそ森で命をつなぎ、雪に負ける生命はブナ林に存在しません。
人の心も同じです。屋根雪が落ちないところに庭木を植え、盛夏に冬への折り返しを感じ、秋には備えます。
雪のない時も雪を感じる。
私が住む柳田は能登の豪雪地帯。人も暮らしも自然の中にあることを皮膚感覚で会得できる風土でした。
雪は農業を止め、人の行動を制限し、経済を停滞させる自然のブレーキかもしれません。でも相手は自然、自分だけやきもきしても仕方ありません。思い通りにならない存在と共にいる感性は日本の神性の深い部分に通じていそうです。
やがて雪になじんでくるとすべてを覆い隠す冬にまぎれて世界から切り離された感覚に親しめるようになります。
静けさと清浄さ、人の温かさや親密さが身近です。
その場にとどまり、限界を知り、そのままを受け入れる大切さはおそらく、自然の摂理に則った持続するための智恵。春の雪解け水がすべてを育む源となるように、とどまることは創造のはじまりです。
「季節時計」は雪が去ればグルンと回り、齢をひとつ重ねます。
【編集後記】雪国特有の労働は「雪かき」。 関東では無縁でしたがなかなかの重労働です。朝起きると車が埋もれていたり、雪が降り続いてキリがなかったり。ぼやきたくもなりますがこう考えることにしました。
●通勤ラッシュよりはマシ
●なまった体を鍛える爽快感
●生きるための労働という崇高さ
ちなみに能登では「雪すかし」といいます。
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