「コケの先生は神谷さん、ゼンマイの先生は谷屋さん、私はもらって食べるだけ。」
「私は話を聞くだけ」(一同笑)それなら野菜の先生は?と聞くと
「みんな先生。」とおばあちゃん全員が誇らしげに答えました。
自分の畑の野菜を母や姑から教わった料理にして持ち寄ってみんなで昼食を楽しみます。帰りに残りを分け合あえば豪華な夕食ができてしまうとか!しかもお金はかかりません。
「辛抱もしたけど~その分、長生きしとりん。小学校ン時から一緒のモンに囲まれて~ぇ、今は幸せやわ。」
都会にない農村の絶対的強み、それは「土に根差した暮らし」です。おばあちゃんたちのたくましい哲学も土に根差しています。土は循環し再生する命であり、大地であり地球であり、能登です。
過疎高齢化という呪縛
「過疎化」「少子高齢化」「限界集落」は、全国の農村をどこもかしこも十把一絡げにして夢も希望も消してしまう呪文です。統計学的事実かもしれませんが農村の真実ではありません。
本来は都市集中と表裏一体で語られるべき課題です。そもそも都市化は農村からの人的供給に依存して成し遂げられたのですから。しかし共犯のはずの都会側が一方的に地方の問題として切り離して批評しはじめ、農村側も無批判で「カソコーレーカ」を受け入れて自らを語ってしまった途端、それはブルドーザーと化します。真実は埋められ、閉塞感と人口減少の未来予測に人々は立ちすくんでしまいます。
しかし農村は都会の人が心配するような存在ではありません。それどころか強くてしぶとい。家や田畑を守ってきたお年寄りの数だけある土の暮らし、土からできたものを供して分かつ土の哲学があるからです。言葉や数字では表せない身体知や土地に属した集合知の底力が都会から見えていないだけです。
能登の暮らしに宿る真実にヨソ者が触れようと思うなら首を垂れて教えを乞う謙虚さがなければ開示されません。その知恵は根無し草の都会人が必死になって探している【懐かしい未来=幸せ・共有・つながりの再構築】への模範解答です。時代は今「まわれ右」をしているのです。
カソコーレーカの呪縛を断つために能登の人は「ありのまま・あるがままの今ここ」を自らの言葉で語り教えましょう。ここでは一番遅れていると思っていたことが都会では逆に最先端として注目されている、ということに気づいてください。
【編集後記】日本的感性が急速に失われつつある都会の側にこそ、農村から学ぶべきことは多いはずです。また都会によって傷つけられてきた農村は、都会に癒されることが必要です。それには実際に人と人が会って語り、往来することで実現できます。都市と農村の分断を結び直すのは人と人との直接的な関係です。
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